ナレーター・朗読講師

長澤泰子

[その2] 芥川龍之介「春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる」

2023-08-21更新

芥川龍之介の短編『春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる』を朗読する際のポイント解説、第二回です。
タイトル以上のことは、なにも起きない作品ですが、散歩をしているのは、芥川本人でしょうか。

 春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる。向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。それにしても大きい長靴だなあ。膝――どころではない。腿も半分がたは隠れてゐる。ああ云ふ長靴をはいた時には、長靴をはいたと云ふよりも、何かの拍子に長靴の中へ落つこつたやうな気がするだらうなあ。

「春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる」と始まります。
タイトルと同じ文章から始まっていき、この後この人は、人に出会ったりものを見たりしていきます。その間中、ずっと歩いています。歩みを止めていません。
まず、それを忘れないことが大切です。歩みはずっと続いているということで、この作品をどんなテンポで読むか、どんなスピードで読むかということを、少し意識してみます。

スピード感。はやいのか、ゆっくりなのか

本当にお散歩そのものを描いている作品なので、「読みのスピード」が「お散歩のスピード」になります。
早足で歩いているのか、あるいはゆっくりゆっくり歩いているのか。
途中で変わることもあるかもしれません。早足になるところ、ゆっくりになるところ。それは、普通のお散歩の時も同じです。
その、歩みのスピードと、読みのスピードを少しリンクさせる感覚を持って読んでみましょう。

まず冒頭にある「春の日のさした往来をぶらぶら一人歩いてゐる」という文章を、どのぐらいのスピードで読み始めるか。ここでまず基本となるお散歩のスピードを決めていきます。

人の喋り方、あるいは朗読をする時のスピードというのは、人それぞれに持っている感覚があります。
普段から早口気味の人、あるいはゆっくりしゃべる人という個人差があります。そんなことを少し考えてみて、自分は早口側か、ゆっくり側かという風に、なんとなく分けてみます。
普段の自分のしゃべりが、早めなのかゆっくりめなのか、どっち気味かなということを意識した上で、自分がこの散歩の最初の歩みを、どのぐらいのスピードだと考えたか。
ゆっくり歩き始めたいなぁと思った場合、自分の普段のしゃべりが少し早いと思った人は、想定よりもゆっくり。敢えて「ゆっくり」を意識しないと、なかなかゆっくりの読みにはなりにくいと思います。まずは自分の喋りが普段どうかなということを考えてみましょう。

自分の持っていきたいスピードに合わせていく。この、基本の読みのスピードというものを意識していった上で、お散歩の歩みが早くなっていくようなところ、逆にゆっくりになっていくようなところ、歩くスピードと、読みのスピードをリンクさせる意識を持って読んでいきます。

向うから来るのは屋根屋の親かた。屋根屋の親かたもこの節は紺の背広に中折帽をかぶり、ゴムか何かの長靴をはいてゐる。

このお散歩で、まず最初に出会うのが、屋根屋の親方です。
「向こうから来るのは屋根屋の親方……」
とありますね。
親方は、突然目の前に現れたわけではなく、向こうから来るわけですが、向こうとは、どの程度向こうかとは書いてありません。
そこで、ちょっと自分の中で映像を浮かべてみて、どのぐらい向こうから来てるかなと、遠くなのか、ちょっと遠くなのか。屋根屋の親方だなと認識できるくらいの距離感というのは、どのぐらいだろうということを、考えてみます。
そうすると、「向こうから来るのは屋根屋の……」と入ってくるまでの間合いというのが、自然に決まってきます。

ぶらぶら一人歩いている、向こうから来るのは、と、同じスピード感で、間を置かずにパッと入ってしまうと、いきなり目の前に登場したような感じになってしまいます。少し間を置いて、向こうから来てもらったら、ちょうどいい感じにならないでしょうか。

親方が、いつもと違って、紺の背広に中折れ帽をかぶって、ゴムの長靴を履いている。いつもと違って、多分ちょっとおしゃれをしているっていうような状況を見ている。
ここの様子を、声はかけずにただ見ています。

それにしても大きい長靴だな膝どころではなくて、ももも半分型は隠れているああいう長靴を履いた時には長靴を履いたというよりも何かの拍子に長靴の中へ落っこったような気がするだろうなぁ。

と思うだけです。

見ているものと意識が切り替わっていく

ここでポイントになってくるのは親方のことをどこまで見続けているかということですね。この辺を少し忠実にやっていく必要があります。

ここを、続けざまに読んでしまうと、ちょっと親方のことを凝視しているような感じがしてしまうので気をつけましょう。
実際、「あれは屋根屋の親方だなぁ」と気がつくけれど、話をする、会話を交わすほどではなさそうです。ひょっとしたら、親方はこちらを知らないかもしれないとか、その程度の間柄だったり、あるいは向こうから来て、またどこかで曲がっていったり、お店に入っていったりというような可能性もあります。
なので、ずっと親方を凝視しながら考えているわけではないと推察できます。どこかで必ず親方から目を離してください。
親方を見ながら、観察しながらしゃべっているところ。それから親方から目が離れても、その見た親方の残像を脳内に思い浮かべながら、親方の残像に対して思ってるところ。この、ベクトルが親方に向いているか、親方の残像。つまり自分の中に向いているのか、ちょっと矢印の向きが変わることを、しっかり意識してください。

親方から目を離して、自分の脳内に矢印が向くタイミングはどこかなと考えて、その変化の部分には、少し間合いが必要になります。
親方を見ていて、目を離して自分の脳内に焼き付けた親方の様子を思い浮かべながら、例えば「あんな長靴じゃまるで、長靴の中に落っこったみたいな感じがするだろうなぁ」と思っている時にはもう、親方のことは多分、見ていないのではないかという感じがします。
同じ親方についての話をしているところですが、目線が変わっていることを、しっかり意識しましょう。
この切り替えが全編通して存在します、この作品は目線がコロコロ変わっていきます。
お散歩は続く、歩みはどんどん続いていく。そして、その都度見るものや考える対象が変わっていく。ここをどう切り替えていこうか、ちゃんと切り替えられているか。そこを読みのポイントにしていきましょう。

親方についてあれこれ考えているうちに、今度は顔なじみの道具屋が目に入ってきます。
次回は、道具屋が目に入ってからを、どんな風に読み進めて朗読にしていったのかを、解説していきます。
実際に教室で扱った内容なので、皆さんの実践にも役にたつのではないかと思います。ぜひ、声に出して、より深まる読書を楽しんでみてください。